(2)小田原駅 幸町(2009.1.17)

 本題からちとズレるが、お堀端通り入口の角に、いつの間にか「すき家」がオープンしていた。下の写真のとおり、すぐお隣が吉牛。完全にケンカを売る形の開店である。

 ちなみにすき家の入ったビルのオーナーテナントは漢方薬局でHPのコラムで「メタボ退治の第一歩は昼食抜き」なんて御説を述べられていたりするのだが、軒を貸した相手が牛丼チェーンかいな・・・まあ、どうでもいいことだが。
 本題に戻る。ビール、ハンバーガー、揚げ物とメタボ退治に程遠いひとときを過ごし、フレッシュネスバーガーを後にする。道を挟んだ、昨年閉店したナック中村屋のビルのショーウィンドウには次期衆院選立候補予定者のポスターがベタベタ。このままお堀端通りをお城方向へ進む。
 次なるターゲットは「幸町」。まさに小田原の宿場町の中心部だったところ、小田原城内が該当するほか、市民会館・裁判所・松原神社・宮小路などがある。鉄道駅からはやや離れているものの、箱根方面へ向かう路線バスはすべてここを通る。
 さて、小田原城址「公園」というくらいだから、城内に腰を下ろせる場所はいくらでもある。しかしそれらを上回る公園酒好適スポットが、お堀端通り沿いのまさにお堀端にあるのだ。

 その名もズバリ、
「お堀端ポケットパーク」というらしい。いつ頃だったろうか、パーゴラとテーブル2台が設置され、たいへんな人気スポットとなっている。私が前を通るときは大抵2台のテーブルとも埋まっているのだ(常連さんぽいご老人もいるし)。今回も家族連れがくつろいでいたが、私がしばしお堀の鯉とお話ししていたりした間に、席が空いた。すかさず着席。魔法壜の「黒松剣菱」を酌む。

 あ、魔法壜そのまんまだと絵面的に殺風景なので、「剣菱」のラベルを撮影、印刷してボトルに貼り付けてみました。
 この後まだ5か所回るので、当地で呑んだ量はごくわずか(一合しか詰めてこなかったので、おそらく30mlほど)。一休みして次の目的地、新玉町へと向かう。




(3)小田原駅 新玉町(2009.1.17)


 小田原旧城下東部、新玉町あたりを目指す。この地名も昭和41年の住居表示採用時に消滅したが、今でも「新玉小学校」、それに「新玉新道」なる一方通行道路(同名の交差点・バス停もあり)に名を遺している。
 このあたりは隣町との境界の見定めが非常に難しい。一応市立図書館で昭和38年版の明細図を借りて現在の地図と付き合わせたが、当時の明細図って結構アバウトなつくりなので、微妙な境界が意外とわかりづらいのだ。しかしとにかく新玉町のおおよその範囲を把握して現在公園がないか調べたが・・・ない。単にベンチなら大工町商店街あたりにいくつか並んでいるのは知っているけれど、繁華街ど真ん中でベンチ酒というのは気が引ける。
 改めて現在の明細図を見ると、国道1号沿い浜町交差点の少し先に「新宿公民館」というのがある。この前にわずかではあるが空き地らしきものがあるようだ。となると、ベンチのひとつも置かれている可能性もある。もうあと少し足を踏み出すと新玉町から外れてしまうようなロケーションだが、とにかくここを目標に定めた。
 お堀端ポケットパークのわずか手前の交差点を東へ。中央通り、小田原郵便局前に出る。

 郵便局向かいにある平井書店。伊勢治書店と並び戦前から続く老舗の本屋である。伊勢治のほうは時代の流れに上手く乗ることができたようだが、こちらは良くも悪くも昔ながら・・・てな印象。
 中央通りを渡ってさらに東へ。

 浜町1丁目交差点より国際通りを望む。小田原の中心街衰微の象徴として語られて久しい国際通り。私が物心ついた頃(昭和45〜6年)から既に今のような状態だった気もする。たしか映画館「国際劇場」はこの交差点角にあったのではないか。全然記憶にないが。
 国際通りを渡ってそのまま直進。左右にお寺が並ぶ。途中、「小田原の神様」として一世を風靡したらしい御方のお宅などもあり。やがて国道1号と合流(新宿交差点)。旧東海道はここでいったんイチコク(「コクイチ」と呼ばないと怒る人もいるが、どうでもいい)に別れを告げ、海側一本隔てた道を小田原城方面へ進む形になる。私は国道を江戸の方角へ。あと200メートルも歩けば新宿公民館があるはずだが・・・あった。

 日当たりの悪い庭先に、質素なベンチが1台。そしてここは、旧東海道江戸口見附跡であった。公民館(公会堂・集会所・児童館)の類いが史跡の地に建てられているケースは結構あり、簡単な遊具やベンチなどが備えられていることもある。公園がない土地では公民館の存在を要チェックであろう。
 ともあれ、日当たりの悪いベンチで一献。

 ちなみに、当公民館の脇を山手に入った界隈が、おなじみの抹香町である。




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