(70)上曽我村(2009.3.5)
私、ブログ編の当項において、たいへんな事実誤認を犯しておりました。問題の記述。
まあ、本来曽我6村でまとまっていたはずなのが明治11年の郡区町村編制法で別所・原・谷津・岸各村と上曽我村・曽我大沢村が別々の郡に分断されてしまったのは不幸なことだったに違いない。一方で鬼柳や西大井のような酒匂川と境を接しているようなムラまでが曽我村として一括りにされてしまったのだから。
これはとんだ間違いで、明治11年の郡区町村編制法以前、すなわち江戸時代より上曽我・曽我大沢両村は足柄上郡に属していました。もちろん曽我郷6村としての結びつきは当時から強いものがあったと思いますが、いずれにせよ古より曽我別所・原・谷津・岸各村と上曽我・曽我大沢村は別々の郡に属していたということです。深くお詫び申し上げます。
こんなステキな木彫りの像のあるところから20メートルも歩くと、上曽我の区域内に入る。そう、これで旧足柄下郡域5町64村をすべて回り終えたわけだ。あとはいよいよ旧足柄上郡内の6村を残すのみ。
例によって県道から離れた山裾の道を歩く。また徐々に高度を上げているようである。
ここでの狙い目もまた公民館。上曽我は面積が広く、県道を北西にずんずん進んでいった集落内に本家?上曽我公民館がある。私の狙いはその手前、梅林で有名な中河原集落にあるほうの公民館。
途中、「見晴台」なる場所へ導く道標があった。見晴らすくらいだからベンチのひとつも置かれているかもしれない。が、道標が示す先は急坂だ。まだ先は長いし、あんまり体力消耗したくない。とりあえずスルーして、当初目標どおり中河原公民館を目指す。
畑の脇のゆるやかな坂を登りつめると、一気に視界が開けた。おお、ありました。公民館と道を挟んだ向かいに、ベンチが3脚。なんとも開放的な雰囲気である。ここなら一献にもピッタリだ。
ちなみにここ、曹洞宗の古刹・瑞雲寺の門前というロケーションである。お寺のほうもなかなか見どころが多い。
境内のあちこちに石仏。コンディションの良くないものが多いのがちょっと残念。
私、恥ずかしながら知りませんでした。現在伊勢原にある向上学園(向上高校・自修館中等教育学校)はここが発祥の地だったんですね。向上OGの松澤知加子さんにはお世話になりました・・・。
満足して公民館前を後にし、坂道を下る。と、なんと公園を発見!
入口に名称が記されていないし、小田原市のサイトの街区公園一覧表にも記載がないから、地域で管理する児童遊園地という位置づけなのだろう。そして当園内にも道祖神や石塔が鎮座している。
内容はよくわからないがこの石塔、素朴で気に入りました。
県道松田国府津線に合流。御殿場線の線路と微妙に距離を置きつつ並行して北西方へ向かう。交通量が結構多いところへ歩道が切れ切れにしか付けられていないので、あんまりよそ見して歩けない。
大沢の区域に入った。県道沿いに公民館があるので期待していたのだが、残念ながらベンチなし。さて、そうなると他に期待できそうな場所は神社くらいか。地図を見ると、一応公民館の東北東に「熊野神社」がある。しかし、図上から判断するに、神社は集落の外れかつ標高が一段高いロケーションのようだ。果たして境内にベンチなどあるだろうか。ま、とにかく行ってみる。
覚悟はしていたが、かなりキツい登り坂。ここに来るまでにこまかいアップダウンをこなしてきただけに、かなり脚がへばる。
ひと汗かいた頃、ようやく左頭上に鳥居が見えた。
長い石段を登り、鳥居をくぐる。おぉ〜っ、あった。
境内にはベンチが1脚。ささやかながら遊具も揃えられている。しかも、日本中でほぼ絶滅したはずの箱型ブランコが残っていた。現在これらの遊具がどれだけ使われているかはわからぬが(近場に公園はない)、ここにもまた、由緒正しき村の鎮守様の佇まいが遺されているということだ。私めもベンチをお借りしてひと休み。
さっき息を切らせながら登った坂を下る。もうこの先は平坦道だけのはずだ。よかったよかった。
よかったついでに、ちょっと寄り道。
「曽我の譽」の石井醸造(株)です。住所は大井町上大井ながら、一歩足を踏み出せばそこは小田原市曽我大沢という、境界ぎりぎりのところに蔵元はあります。
で、この日は一旦大井町にコースアウトし、上大井駅から御殿場線に乗って帰りました。以下おまけ画像。
駅前広場にこんな立派な四阿が。一献スポットとして十分使えるが、駅前に酒・つまみを調達できる店がなさそうなのが残念。